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「今でも自分のことを『翻訳家』だとは思っていません。どんな仕事が来ても、自分はこの本の翻訳に関しては初心者だという意識で臨みたいですね」
世界68カ国、35言語で翻訳され、日本でも150万部を超えるベストセラーとなった『Good Luck』。訳したのは、イギリスの大学院で翻訳を学んだ新進気鋭の翻訳家、田内志文さん。
「留学前は英語はほとんどしゃべれなかった」という田内さんに、翻訳家になるまでの道のりやプロとして生きていくための心構えなどについてうかがった。 |


大学を出て、フリーライターとしてゲーム攻略本などの仕事をしていたのですが、仕事もあまりなく、生活が続けられないような状態でした。正直なところイギリスに渡ったのは、そんな生活から逃避したいという気持ちが強かったんです。
当時英語はまったくしゃべれなくて、なんとなく語学学校に通っていました。語学検定試験でたまたまイースト・アングリア大学院の入学基準を満たしたので、「行けるのならば、行ってみよう」と思い、専攻は比較的単位の取りやすそうな翻訳を選んだんです。ライターとして培った文章技術があればなんとかなるだろうと考え、この時点では、まだ翻訳家になろうと決めていたわけではありませんでした。

イギリスで留学生活を送っている間に、兄が日本から本を送ってくれました。その中に『ぼくは静かに揺れ動く』(ハニフ・クレイシ著、中川五郎訳)があり、これを読んだときに「翻訳の仕事もいいなあ」と、漠然と考えるようになったんです。
帰国してから著作権エージェンシーにアルバイトとして勤め始め、そこでリーディングの仕事を重ねるうちに『A Head Full Of Blue』(ニック・ジョンストン著)という本と出会いました。シノプシス(あらすじ)とサンプル訳をつけて河出書房新社に送ったところ、翻訳をやってみないかという話をいただいたんです。そんな経緯で、2003年の暮れに同書の邦訳『BLUE』を刊行することになりました。
| ベストセラー『Good Luck』を翻訳してみての感想は? |

第一印象は、単純に「これはいい本だ」でした。訳すに当たっては、この本に限ったことではないんですが「どういう風に日本語にしようか」というところが、いちばん難しく、また楽しい点です。できるだけ原書に忠実でいようと心がけても、それだけでは成り立たないものがときとしてあるからです。
例えば『Good Luck』の場合、魔術師の下に忠誠を誓った騎士たちが集まるという場面があるのですが、これは日本の読者にはなじみのないものであると思い、多少補足したり書き足したりした部分もあります。

いちばん大変なのは、フリーランスとして自宅で仕事をしていくということの難しさでしょう。必然的に引きこもりがちになるので、煮詰まってしまうことも多いんです。食欲や睡眠欲を満たそうという欲求そのものが薄れてきてしまい、気持ちもすさみがちになってしまいます。
一方で、パソコンの隣に置いた原書が、画面上で一行ずつ日本語になっていくのを眺めているのは、なんとも言えない楽しさです。自分の思い入れのある本が、言語を変えて生まれ変わってゆくのを見ているのは、実にうれしいですね。

翻訳家志望の方と話をしたり、メールをいただいたりすることがありますが、英語能力に重点を置き、「日本語は母国語だから大丈夫」と油断しがちな人が多いように思います。翻訳で一番必要とされるのは、日本語能力。英語でわからない部分は、辞書を引いたり著者に質問したりして解決することができますが、そうやってくみ取ったものを最終的に文章にするのは、翻訳家の腕ひとつにかかっています。いかにいい食材を集めてみたところで、コックの腕がイマイチだといい料理にはならないのと同じことです。
僕の場合、子どものころから父親に川端康成や鴨長明などの作品の全文書き写しをさせられていたことが大きかったと思います。あえて自分本来のものとは違うリズムで文章を書くと、身につくものは大きいですね。特に、翻訳はさまざまな文体を操らなくてはならない仕事ですから。
あと、不可欠なものは真心。作品に対する真心や、著者に対する真心。敬意。愛情。そういったものが翻訳のクオリティを最終的に左右すると思います。僕はイギリスの大学院で翻訳の理論を学んでいますが、これに頼ると、訳文が固くなってしまったり、小手先でやったような感じになってしまうことが多いんです。
大学院での勉強を終えて日本に帰国してから、「仕事のときは勉強したことを忘れなさい」と言われました。本気でやった勉強は、意識しなくても勝手に活きてくるものですから、あえて「学んだことを生かそう」と意識する必要はないんだと思います。

翻訳家として書物の表紙に名前を載せるということは、「訳文がマズかったら、それはこの人のせいです」という表示だと思っています。そのくらいの気持ちでいたほうが、身が引き締まっていい。そして、どんな本の翻訳が来ても過去の仕事のことなどは考えず「自分はこの本の翻訳に関しては初心者だ」という意識で臨みたいと思っています。
本は一冊一冊が違うものなのだから、過去の経験などに頼ってしまうと、何か大事なものを見落としてしまう可能性があります。前の恋人との付き合い方が、新しい恋人にはある程度しか当てはまらないのとよく似ているでしょう。
僕は、「自分は翻訳者なのだ」という意識をあえて持たないことも大事なのではないかと思っています。実際、今でも自分のことを翻訳家だとは思っていないし、何か特定の職種の人間であるとも思っていません。たまたま文章を書くことができ、たまたま翻訳をすることができるから、そういう仕事をいただくことができる。そう考えているんです。
| 取材・編集協力: |
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1974年埼玉県生まれ。明星大学日本文化学部卒業。フリーライターとして活動したのちイギリスへ渡り、イースト・アングリア大学院で翻訳を専攻する。訳書に『BLUE』(河出書房新社)、『Good Luck』(ポプラ社)、『頭のいい人の片づけ方』(PHP研究所)。ノベライズに『トレジャー・プラネット』(竹書房)、絵本原作に『サーフベアと星の洞窟』がある。スヌーカー(ビリヤードの一種)のプレーヤーとしても活動しており、現在、Japan Snooker Players' Clubランキング25位。 |


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『Good Luck』
アレックス・ロビラ/フェルナンド・トリアス・デ・ベス 著、田内志文 訳(ポプラ社/定価1000円)
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